ハビバ・サラビ博士との対談より:「すべての女性が平和に暮らし、自分の権利を認めることができるアフガニスタン。それが私たちのビジョンです」
2020年11月20日
2020/10/19
ハビバ・サラビ博士はアフガニスタンの先駆的指導者であり、アフガニスタン国内で現在行われているタリバンとの和平交渉に参加しています。この交渉に参加している女性は、サラビ博士を含めてわずか4人です。サラビ博士は血液学を学んだ後、平和活動家、政治家、改革者としてアフガニスタンの復興に携わってきました。そしてアフガニスタン女性問題相を務めた後、2005年にはアフガニスタン史上初の女性知事となりました。その後も、アフガニスタンにとって重大なターニングポイントで女性の権利と平和構築の促進に尽力し続けています。国際連合安全保障理事会決議1325号の採択20周年にあたる今年、UN Womenはサラビ博士と対談しました。安保理決議1325号は、紛争の予防、平和と復興のあらゆる局面に女性とジェンダー分析を取り込むために、女性と平和、安全保障に関するアジェンダを作り続けています。アジェンダに欠かせないのは、意思決定の権利を得てそれを行使する女性の平和指導者です。
「私は1960年代のアフガニスタンで少女時代を過ごしましたが、私の願いは学校に行くことだけでした。父が私の教育に無関心だったため、それは簡単なことではなかったからです。ですが私は頑固で意志の固い子どもでしたので、学校まで一人で歩いて通い、少年たちの嘲弄にも耐えました。
1996年にアフガニスタンでタリバンが政権を握ったとき、私はまだ若く、結婚して子どもが2人おり、カブールで医療に従事していました。紛争によってカブールは危険な街に変貌し、タリバンは女性を家の中に閉じ込めて働けなくしました。学校が閉鎖されたため、私は夫をカブールに残し、子どもたちを連れてパキスタンに脱出しました。
それは私の家族にとって辛い時期でした。子どもたちはまだ幼かったのですが、アフガニスタンで皆が苦しんでいるというのに、何もしないでじっとしていることは私にはできませんでした。そこで私はブルカを被って山道を歩き、国境を越えて秘密裏にカブールに通いはじめ、少女のための学校の地下ネットワークの構築を手伝いました。パキスタンに戻ったときは難民キャンプにある市民社会組織で働き、アフガニスタンの女性たちの窮状を訴えました。
2001年にタリバン政権が打倒されると、私はすぐにアフガニスタンに帰国して復興の手助けをしました。最初に、ハミド・カルザイ議長率いるアフガニスタン暫定政権から女性問題相に任命されました。その後、2005年にはアフガニスタン初の女性知事に任命され、バーミヤン州を治めました。
それはアフガニスタンの女性たちにとって、画期的な出来事でした。それまで女性が何らかの権威ある立場に就くのを見たことがない人がほとんどだったからです。ある催しに参加したときのことです。控え室で女性たちと話をしていると、そこに警察署長が到着しました。そのような重要な地位にある男性が女性である私から指示を受けるのを見て、彼女たちは驚いたようです。私は、自分がロールモデルになって変化を起こすことは可能だということを女性たちに示すことがいかに重要かを学びました。
アフガニスタンの女性が現在直面している状況は数十年前とは異なります。ソーシャルメディアを活用して女性が声をあげ、活動しています。今では、多くの女性が家庭だけではなく社会の一員として活動し、公職に就いています。
それでも女性の権利と恒久的な平和の両面において、現在、重大な局面に立っています。
私は現在、アフガニスタン政府とタリバンの間の和平交渉に参加し、女性がこの交渉の中心に置かれるように努めています。和平交渉への女性の参加なしには、恒久的で持続的な平和などあり得ません。
同時に、アフガニスタンにおける女性への暴力が著しく増加していることも事実です。女性を攻撃することで和平交渉そのものを攻撃し弱体化させることができると思っている人による暴力です。性的暴行と殺人が増加し、農村地域における女性の言論と表現の自由が抑圧されています。
多くのことが危機に瀕しています。すべての女性が平和に暮らし、自分の権利を認めることができるアフガニスタンというビジョンを実現するまで、私たちは前進し続けるという揺るぎない決意を持たなければなりません」。
(翻訳者:松本香代子・実務翻訳スクール)
カテゴリ: ニュース , 国連ウィメン日本協会